麹町から半蔵門にかけて1番町から6番町まで番町が広がっているが、半蔵門駅前に町名の由来が説明されている。
江戸城に入った徳川家康は城の西方の守りを固める為に、この一帯に大番組に属する旗本たちを住まわせました。ここから「番町」と言う地名が生まれ、この界隈には多くの武家屋敷がありました。明治に入ると中央官庁や皇居に近接したこの地には、政府役人の官舎や華族の屋敷が並び、山県有朋の邸宅もありました。明治5年(1872)、英国大使館(当時は公使館)がこの地に移って来ます。維新の志士たちと深い交流をもち、のちに駐日英国公使として日英同盟に尽力したアーネスト・サトウも、ここで多くの年月を過ごしました。-
- - - (千代田区町名由来版より)
(薩摩・長州とイギリス) 日本と英国との結びつきは、薩摩藩士が島津久光の行列に入って来た英国人を切った生麦事件に始まり、薩英戦争となり、薩摩が英国に賠償金を払う際に交渉に当たった薩摩を英国は高く評価し、また薩摩も英国の武器の優れた点を強く認識した為に武器の近代化を図りより強い薩摩へ生まれ変わって行く。
一方、長州は孝明天皇が幕府に攘夷実行を迫った為に幕府に代わり関門海峡を通過するイギリス、アメリカ、フランス、オランダなどの艦船に砲撃を加え、英米仏蘭の連合軍と戦争をし、各国の武器の優れたことを認識して長州の武器の近代化を図った。
このように薩長は外国との戦争を直接経験した為に当時の幕府よりはるかに外国軍隊の強さを認識し、英国製アームストロング砲など武器・艦船の近代化を図ったことが幕府の軍備との決定的な差になった。
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