三囲神社より更に見番通りを進むと左手に向嶋墨堤組合の建物が見える。見番通りの名前の由来となった向島花街検番の事務所になる。
向島墨堤組合
江戸中期になると社会も安定し、連歌や俳諧などの会席が料理茶屋で開かれるようになった。こうした宴の席に華を添えるため、踊りや唄で客をもてなす芸妓が現れ、花柳界が誕生。以降、幕末まで大いに栄えた。しかし、明治に入ると、急速な近代化の中でこうした「江戸情緒」は徐々に失われていく。
伝統や文化の喪失を惜しむ多くの文化人は、風光明媚な向島に居を移し、新たな文学や芸術を創造し、花街もかっての賑わいを取り戻していった。粋な空間で楽しむ「お座敷遊び」は、文人墨客に愛され、やがて一般の人にも普及していった。
向島には、今なお料亭のお座敷と芸妓、舞や唄いなどの伝統芸能が脈々と継承されており、一種独特の文化圏が保たれている。
向嶋墨堤組合は、料亭、置屋、芸妓衆など花街の統括管理が主な業務で、平成24年3月現在、16軒の料亭が加盟し、100名を越える芸妓衆が登録している。規模は都内随一で、作法、所作に始まり、お座敷でのおもてなしの心を身につけるために、西川流や猿若流などの日本舞踊の他、鳴物、清元、長唄、常磐津、笛を専属の師匠について修練している。
向嶋墨堤組合における説明文より、
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