首都高速の下には明治初期に煉瓦による銀座の街並みが出来た経緯が記述されている。
「煉瓦銀座の碑」
明治五年十二月二十六日銀座は全焼し、延焼築地方面に及び焼失戸数四千戸と称せらる。東京府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企画建策し政府は国費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す。煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店が形成の濫觴となりたり。
「煉瓦とガス灯」
明治初期我が国文明開化のシンボルとして、銀座には煉瓦建築がなされ、街路照明はガス灯が用いられた。床の煉瓦は、最近発掘されたものを、当時のままの「フランス積み」で再現。ガス灯の灯柱は、明治7年実物を使用、灯具は忠実に復元。
1872年に和田蔵門付近からの出火により銀座一帯は焼失され、政府により煉瓦造りの街並みが形成されたが、1923年の関東大震災により煉瓦街は焼失。その後第2次大戦の空襲で再び焼失と、焼失と再建を繰り返して現在の銀座が形作られて来た。
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