天璋院篤姫 墓所(非公開)
天璋院篤姫は天保六年(1835)十二月十九日、薩摩藩今和泉島津家島津忠剛(ただたけ)の長女として今和泉島津家本邸(現在の鹿児島県指宿市)にて生を受けました。(幼名 一子(かつこ)・於一(おかつ))
嘉永六年(1853)、島津本家二十八代当主島津斉彬(なりあきら)の養女となり、名を篤姫と改めて鶴丸(鹿児島)城に入り、また同年中に鹿児島を出立し京都の近衛家に参殿ののちに江戸城下、芝の藩邸に入っています。
その後安政三年(1856)に近衛家の養女となり、名を敬子(すみこ)と改め、同年に徳川十三代将軍家定(いえさだ)公の正室として輿入れしました。−−−−
寛永寺教化部掲示より
この辺の行は大河ドラマを彷彿とさせて、興味を持たれる人々も多いと思われるが、この寛永寺には篤姫にまつわる歴史と共に上野の山が如何に変わったかを説明する掲示もあり、歴史に興味を持たれる方にはお薦めのスポットになる。
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