JR御茶ノ水聖橋出口、出口を出て左折すると神田川に架かった聖橋が見える。神田川は湯島聖堂側と御茶ノ水駅側との間で深く掘り下げられているがこれは徳川家康の命により行われたものであることが下記の説明から分かる。
「駿河台」は元来、本郷・湯島台と地続きで、「神田山」と呼ばれる丘陵でした。江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな町づくりのため、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てました。しかし、埋立てによって平川(現・飯田橋付近から一ツ橋を通り、海に流入していたといわれている)の流れがとどこおり、下流で洪水が頻発しました。そこで、隅田川に通じ、江戸城の外堀の役目も果たす「神田川」が分流として開削されたのです。こうしてこの界隈は、本郷・湯島台と切り離され、独立した台地となりました。
元和二年(1616)、家康が駿府で没すると、家康直属の家臣だった旗本(駿河衆)がその任を解かれて江戸に戻りました。駿府から帰った駿河衆が、江戸城に近く富士山が望めるこの地に多くの屋敷を構えたことから、駿河台と呼ばれるようになりました。−−−−−(駿河台東部町会掲示より)
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