旧駒込吉祥寺町(昭和41年までの町名)
むかしは駒込村の農地であった。江戸時代初期に、越後村上城主堀丹後守の下屋敷となった。
明暦3年(1657)の振袖火事(明暦の大火)後、水道橋(もと吉祥寺橋)の北側一帯にあった吉祥寺が移って来た。そして岩槻海道(日光将軍御成道)に沿って門前町屋が開かれた。延享2年(1745)から町奉行支配となった。
明治2年、吉祥寺門前町と吉祥寺境内の全域を併せて駒込吉祥寺町とした。
江戸時代、吉祥寺には栴檀林(せんだんりん)といって、曹洞宗の学問所があった。学寮・寮舎をもって常時1,000人余の学僧がいた。(現在の駒澤大学に発展)。二宮尊徳、榎本武揚、鳥居燿蔵や川上眉山らの墓がある。(文京区)
曹洞宗 諏訪山吉祥寺
長禄2年(1458)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田蔵門内)に一宇を設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりという。−−−−
(文京区教育委員会)
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