軽井沢の発展
軽井沢は夏の気温が低くさわやかである一方で、冬の気温は零下が続く厳しい気候になる。この気候がカナダに近いと英国系カナダ人宣教師により保養地及び避暑地として開かれ(1888年、明治21年)、外国人が中心の別荘地域として発展した。
アプト式ラックレールにより碓氷峠を越える碓氷線が開通(1893年、明治26年)、軽井沢駅と上野駅が直結した事により東京から多数の人々が軽井沢へ訪れるようになった。
大正に入り、西武系資本の箱根土地開発による千ケ滝地域開発(中軽井沢)及び南軽井沢開発があり、東急系も参入し大型リゾート開発が行われた。
第2次大戦中には駐日大使館の疎開地となって多数の外国人大使館員が働いていたこともある。
1970年代には女性誌(アンアン、ノンノン)が軽井沢の人気を特集していったことにより、旧軽井沢を中心として人気が高まり、観光客が多数訪れるようになった。
東北大震災に続く原発事故により、日本の中でも安全な場所として軽井沢が選ばれ、移住者が増加した時期がある。
最近ではコロナ感染の影響を避ける為、テレワークの定着、2地域居住も盛んになり、軽井沢への移住を選択する人々が増えている。
@軽井沢へのアクセス、
A旧軽井沢地域の人気スポット、
B別荘地としての軽井沢、
C旧軽井沢より信濃追分・御代田へ、
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