三軒茶屋交差点より後ろを振り返り三軒茶屋駅の南口方向を見ると石の道標が見える。
道標 大山道
大山道は矢倉沢往還の俗称である。この道標は、旧大山道(代官屋敷前経由)と、文化・文政期ごろに開通したといわれる新大山道(桜新町経由)との分かれ道にあった石橋楼(三軒茶屋の地名の起こりの茶屋の一つ)の角に建てられていた。
大山は、古い民俗信仰である石尊信仰と山岳仏教の信仰とが結合し、相模の修験道場として重きをなし、将軍をはじめ多くの人々に尊崇された。とくに文化文政期以降は江戸町人などの大山詣りが盛んになり、その案内のため大山道沿道に多くの道標が建てられた。
この道標は、玉川電車の開通や、東京オリンピックの道路の拡幅などにより点々と移されたが、昭和五十八年五月に三軒茶屋町会結成記念事業の一つとして、元の位置近くに復された。
この道標は、本来は渋谷方向に向いて建てられていた。相州通・二子通は、ほぼ現在の玉川通りである。富士・世田谷道・登戸道は、ほぼ現在の世田谷通りである。 世田谷教育委員会
参考:赤坂見附門、
赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。−−−−千代田区教育委員会、
大山への参拝は当時の流行でこの道筋にあたる休息地点に三軒の茶屋が出来たことから三軒茶屋と呼ばれるようになった。
参考:大山街道(赤坂見附-三軒茶屋-二子玉川-溝口-荏田-長津田-下鶴間-蛯名-厚木-伊勢原-大山)、赤坂見附、宮益坂(富士見坂)、三軒茶屋、三軒茶屋大山道道標、
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