豊臣秀吉が京都を再興するにあたり、二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これがのちに六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。その後、今日の町の発展に伴い、寛永十八年(1641年)市街地の西にあたる当時の朱雀野に移った。正式名称は西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動がときあたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて島原と称されるようになった。(京都市掲示板より)