パシフィックセンチュリープレイスの手前が鍛冶橋交差点、外堀通を写真方向に左折すると写真左手の東京国際フォーラムへ。写真右手の建物は東京ビル。参考:東京国際フォーラム全体図、銀座-東京国際フォーラム
鍛冶橋跡
この交差点とJR線との間には、かって江戸城の外堀があり、鍛冶橋という橋が架けられていました。鍛冶橋のさきには江戸城の外郭門の一つ鍛冶橋御門がありました。門の名前は「江戸紀聞」に「鍛冶町へ出る御門なればかくいへり」とあり、交差点の向こう側にあった鍛冶町に由来していると考えられます。
門には鉄砲十挺、弓5張、長柄十筋、特筒二挺、特弓一組が備えられ、柳之間詰の一万石の外様大名が一年ずつ警備を担当しました。門内には南北の町奉行所が移転を繰り返し、一時期は中町奉行所が設けられました。門前には幕府の御用絵師として有名な狩野探幽が屋敷を拝領し、以来代々住んだため、この家は鍛冶橋狩野家と称されました。
明治維新後に門が撤廃された後も、外堀には引き続き鍛冶橋が架けられていましたが、昭和20年代に、外堀が戦災の瓦礫によって埋め立てられたため、鍛冶橋はその役割を終えました。千代田区教育委員会
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