江戸城外濠は全体としてどんな形をしていたのか:
都心を歩いて行くと「外堀通り」に出会う機会が多い。写真ナビの目次の下にあるGoogleにより写真ナビの内容を「外堀通り」で検索すると、赤坂、新橋、飯田橋、水道橋、八重洲、溜池他多数の項目が出てくる、また外濠に関する記事も多いので、これらの場所を結び説明文との整合性をとって地図を作ると上記のようになる。
地図に茶色の点線で示されている通りが「外堀通り」になり、水色の点線は外濠や外濠があった場所、川になる。この線を辿ると飯田橋より四谷までは外濠がそのまま残された唯一の地域で、四谷から新橋までは外濠が埋められて外堀通りになっている。新橋より東京駅を過ぎる日本橋川までは外濠は暗渠になり、通りの上に高速度道路が建設されているが、日本橋川より神田川間はどの古地図を見ても外濠は見られない。
徳川家康は太田道灌築城の江戸城を拡大強化したのみで場所は動かしていない。家康の江戸開府以前には江戸城の東は隅田川、南は溜池に流れ込んでいる川があり、この二つの地形を生かして江戸城の守りにすることが出来た。しかしながら、北には東西に流れる川が無く、駿河台と本郷台地が繋がっていたので北からの攻撃を避ける為に仙台藩に命じて神田川の開削を行い、西は各藩に命じて外濠を造らせた。
これらの事から、江戸城の防衛線としての東の外濠機能は新橋より築地川で隅田川へ、隅田川で北上して両国近くの神田川へ、神田川で西へ進む形になると思われる。
外濠:外濠水面の高低差、江戸城外堀跡(市ヶ谷濠)、鍛冶橋交差点 、日比谷入江埋立と神田川、神田川と仙台堀、徳川幕府と東京、徳川家康江戸到着当時の地形と現在の地図との比較、江戸城外濠全体図、
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