東京の中で下町の良さを残している街としては谷中、根津、千駄木が挙げられるが、谷中へ行く場合は日暮里駅が近い。日暮里からは京成電鉄により成田空港へスカイライナーが出ているために、成田空港行きの乗降客も多く、また舎人ライナーの起点でもあり、日暮里は今後更に発展していくと思われる。
谷中の街歩きには、日暮里駅より夕やけだんだんを下って谷中銀座に入り、谷中銀座の商店街でメンチカツを食べながらよみせ通りから千駄木駅へ抜ける。この後時間があれば千駄木駅から団子坂下交差点へ、団子坂下交差点より三崎坂を上って谷中墓地に出るルートが人気が高い。
谷中・根津・千駄木全体図、( 観光スポット、上野:奏楽堂、寛永寺根本中堂、谷中:夕やけだんだん、谷中銀座、根津:根津神社透塀、唐門、つつじ苑風景、弥生式土器発掘ゆかりの地、竹久夢二美術館と弥生美術館、夏目漱石「猫の家」跡、森鴎外記念館、千駄木:全生庵、さくら並木、五重塔跡、天王寺、)
谷中寺町と谷中霊園
「寺院の屋根の下に谷中の町がある」という表現がおおげさでないほど寺が多く、その数は七十数軒にもなる。
寛永年間(1624−43)上野寛永寺の子院がこの高台に多く建立されたのが谷中寺町の始まりである。それ以前は鎌倉時代創建の感応寺(現天王寺)ほか数える程しか寺院はなかった。
そして、慶安年間(1648−51)、江戸府内再開発という幕府の施策で、神田あたりの相当数の寺院が谷中に移転してきた。また、明暦の大火(1657)の後も、江戸府内の焼失寺院がかなり移ってきた。寺の門前に町屋が形成され、、また参詣にくる人で賑わい、庶民の行楽地となったのもこの頃である。
幕末の慶応4年、上野戦争の兵火は谷中を襲い多くの寺院が焼失したが、その後再建され、震災、戦災にもあわず、昔ながらの情緒をもった寺町を今日に残している。
谷中霊園は、明治5年(1872)、旧天王寺境内の一部を官有とし、それに天王寺墓地、徳川墓地の一部などをあわせた谷中墓地がその始まりである。そして明治7年(1874)、東京都の公共墓地として発足した。東京の三大霊園の一つに数えられ、広さ約十万平方メートル、現在の墓地使用者は六千余りである。幕末、維新以降の著名人の墓碑が数多くある。(谷中霊園前の掲示より)
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